具体の具、実体の実

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阿部共実「死に日々」数字回 各論1 「7759」の色彩について

「数字回」とは、阿部共実先生の不朽の名作である「死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々」通称「死に日々」の終盤(?)の三部作(?)「8304」「7759」「7291」のことである。まだ続きが出る可能性がなくもないので疑問符だらけになってしまう。

 

この記事では「数字回」のそれぞれについて、細かい表現などを探っていこうと思う。今回は私が個人的に最も好きな「7759」にスポットを当てる。

 

「8304」「7759」は単行本2巻に収録されており、「7291」は単行本未収録なので無料で読める。

mangacross.jp

 このうち「8304」については最高のレビューが存在するのでそちらを見ていただきたい。

minesweeper96.hatenablog.com

もし「死に日々」1・2巻を読んだことがないのであれば、悪いことは言わないので以下のネタバレ満載感想を見る前に今すぐ買って読んでほしい。この記事はアホみたいに長いが、記事だけ読んでも作品の魅力はアホみたいに伝わらない。買うのだ。「空が灰色だから」と「ちーちゃんはちょっと足りない」もだ。そしてできれば「死に日々」2巻を手に持って、適宜確認しながらこの記事を読んでいってほしい。以下のページ数表記は「死に日々」2巻のものである。

 

 

 

 

 

 

7759

「7759」の最初のページは「死に日々」2巻の表紙で、次のページは「もくじ」である。というのも、「死に日々」2巻の表紙は水色とピンクの薄い水玉模様をバックにした、右目がオレンジ、左目が青色で、それぞれに橘の姿が映った千夏。目次の背景は黒いバックに紫とオレンジ(オレンジの方が多い)の不規則な配置の水玉模様となっているのだが、これは「7759」の全体を貫く色彩体系と(一部除き)一致するのだ。

 

何のことやら、と思われても仕方ないので、まずは「8304」に登場する、色が直接言及されていたり、色を想起させるような表現が使われている物体や現象を、見つかるだけ全て抜き出してみよう。

灰色の町・青白く染まる・墨を混ぜたような雨・ねずみ色のシャッター・銀色の自転車・群青色の景色・真っ黒に染まる道路・信号機の赤や黄や青緑の灯り・アイボリーとブルーのエナメルバッグ・白いポロシャツ・紺色のロゴ・灰色の空・水色のひび割れ・青い影・緑色や薄焦げ茶色やミルク色の雑草・熱帯魚のようなビビッドイエローの軽自動車・黒い血管・空は青く青く焼き付いて・ 運動場はまるで乳色にうつって・砂や小石が信号のように小さくちかちかかがやいて・校舎はまるで銀のように明かりをおびて・階段は灰色で塗りつぶされて・教室はまるで水の中のように薄緑がゆらゆら反射して・ランドセルは赤くて黒くて・机は陽光と影で白く染まって黒く染まって・プールは赤紫色になって・塩素は鼠色になって・教科書は水色に笑って・先生は鉛色に盛り上がって・廊下は金色にこわくなって・うすい肌が少し褐色をおびている・雨で濡れた体毛が白くきらめいている

 怒涛の色彩表現である。これらの大半は生まれて8304日(≒23年)が経過した「けんちゃん」の独白であり、冒頭に登場する色の彩度の低さに気づけたりするわけだが、本題はそこではなくただ「色相に関して平等」ということである。「7759」の色彩表現は以下のようになっている。

今日の夕空は一面の紫に少しの橙を溶かしたようだった・すみれ色の人形キャンドル・眠る意識のようなききょう色したグレープゼリー・肌がいつにもまして白い・真っ赤な血の温度・加湿器はイエローしかないし・青紫の空に街路樹の秋が私達を祝福するように赤く黄色くぽつぽつと光ってるねえ・群青に染まる浜・ピンクとゴールドの香水・夏の朝日が木々の緑を余すことなく金色に燃やしているよ・千夏どうだいこの世界は いろんなものに目をかがやかせて 少し色の薄い瞳が陽光に照らされて爆発を起こしたオレンジ色の宇宙のように深いよ

 けんちゃん(大人)が色あざやかな注釈を入れる「8304」とは異なり、登場人物(特に千夏ファミリー)が自由に色を含んだ発言をしているせいで雑多な印象を受けるが、ここで注目したいのは「すみれ色の人形キャンドル」、そして「千夏どうだいこの世界は いろんなものに目をかがやかせて 少し色の薄い瞳が陽光に照らされて爆発を起こしたオレンジ色の宇宙のように深いよ」の二つの表現と、そこから見えてくる二項対立である。

すみれ色の人形キャンドル

「誕生日ケーキ」で画像検索してほしい。

誕生日ケーキ - Google 検索

もしもすみれ色の人形キャンドルが整然と20本ぶっ刺さったケーキが出てきたなら私の負けだ。本当にすまなかった。この記事は全ておじゃんだ。だが実際は、誕生日ケーキにすみれ色のキャンドル(だけ!)を立てることは少ない。ましてやすみれ色の人形キャンドルなどというホラーな物体を立てることはない。この他に「7759」の中で「人形」という言葉が出てくるのは、橘の台詞

こうやって人形のように静かに目をつむる顔を見てみると いっそう無邪気な子供のようですね

僕は人形のような人が好きだったんですよ 

 だけである。徹底的に言葉に気を使う漫画家の作品なので、ここに何らかの意図があると考えるのは邪推ではない。前者の言葉が発された時点で千夏はすでに死んでおり、橘もそれを分かって言っている。後者の「人形のような人」とはつまり死体である。「人形キャンドル」が死体を表している、としてよいのではないだろうか。そしてその人形キャンドルがすみれ色であることにも意味を見出すべきだろう。このことは覚えておいてほしい。

オレンジ色の宇宙

「宇宙」で画像検索(同前)

ビッグバン直後の宇宙はオレンジ色で描かれることが多く、そうであればこの表現に違和感はないが、

千夏どうだいこの世界は いろんなものに目をかがやかせて 少し色の薄い瞳が陽光に照らされて爆発を起こしたオレンジ色の宇宙のように深いよ

 これは千夏の親が、生まれたての千夏*1に語りかける場面である。千夏の親は世界に対してきわめて楽観的であり、世界を賞賛する際に宇宙に対して「オレンジ」という色を使ったことには特別な意味があるはずだ。

 

紫とオレンジ

紫とオレンジの対立は「7759」に頻出する。最初の一文からしてそうだ。

今日の夕空は一面の橙に少しの紫を溶かしたようだった

青紫の空に街路樹の秋が私達を祝福するように赤く黄色くぽつぽつと光ってるねえ

他の色についてこんな色彩の対立はないにも関わらずだ。さらに作中で、千夏(あるいは作者)による色の贔屓とでも言うべき事態が起こっている。上記のシーンで「私達」を祝福するのは青紫の空ではなく、赤く黄色く(混ぜればオレンジ(安直))光る街路樹だし、

窓を開けて金木犀の香りを招待したい

ブルーベリー大嫌いあっちいけ*2

群青に染まる浜、イエローの加湿器、色が明示されていないワインといった紫でもオレンジでもないものを考えなければ、明らかに千夏は紫よりオレンジを贔屓している。先の「すみれ色の人形キャンドル」「オレンジ色の宇宙」を考慮に入れれば、「7759」では紫が「悪いもの」、オレンジが「良いもの」を表しているのではないか、という仮説が得られる。

 

ここで死に日々2巻の目次に戻ろう。ここまで読んだあなたには、この紫とオレンジのデザインが「7759」のために作られたものに見えるだろう。ちなみに死に日々1巻の目次では紫色の水玉のみが描かれており、1巻より2巻の方がハッピーエンドが多い(一応)ことを示していると妄想してもよいし、なら目次は「7759」と関係ないんじゃねーかと憤慨してもよい。いずれにしろ表紙の千夏の瞳の色が青とオレンジの構造を示しているのだから。紫ではなく青(水色)というのが引っかかるが、そのぐらいの齟齬はこれからの考察で山ほど出てくるので気にしないでいただきたい。多分デザインの都合だ。

 

千夏先輩の死因について

「7759」で千夏は7759日の生涯を終えるわけだが、その死因は明らかでなく、「ヒーターのガス漏れ」という事故説・「千夏は自分の死体を誕生日プレゼントにした」という自殺説・「橘が夢を諦めきれずにゼリーに毒を入れた」という他殺説それぞれにもっともな理由*3が存在する。私はこの議論に終止符を打ちたい。あるいはもっとカオスにしたい。

 

p.138を見よう。

 

・・・と言われてもページ数の表記が省略されまくっていて難儀すると思うので、分かりやすく言うと

千夏どうだいこの世界は いろんなものに目をかがやかせて 少し色の薄い瞳が陽光に照らされて爆発を起こしたオレンジ色の宇宙のように深いよ

 のページである。このページは三段構成になっていて、それぞれの段の真ん中にはヒーター・薬の包装・ゼリーの容器が並列して描かれている。これが全てだ。私が提唱するのは事故と自殺と他殺が重なっちゃった説である。

調子の悪いヒーターはガス漏れを起こしたし、千夏は橘の死体愛好を知っていて自らの死体を誕生日プレゼントにしようと考えて睡眠薬の過剰摂取の類を行いそのことをすみれ色の人形キャンドルに込めて伝えたし、橘は毎日ゼリーに毒を仕込んでいた、という、ただそれだけの説である。それだけの説だが、事故説・自殺説・他殺説のいずれか一つを採用することによる矛盾を全て説明できると考えている。特に、一貫性を欠くようにも見える橘の行動にも全て説明がつくのが大きい。夢が叶った喜び、自分が先輩を殺したのだという後悔、すみれ色の人形キャンドルを見ての、理解者を得たのだというめいいっぱいの幸福感。うまい具合に橘の心情が浮かびあがる。また、千夏がケーキに毒を盛る動機がないので、橘の死因はヒーターだと分かるが、何が千夏の決定的な死因となったのかは不明で、わざとぼかしている感じがある。が、それは本題ではない。私にとってこの説の最大のメリット*4は、千夏の最終的な死因が何であれ、眠る意識のようなききょう色のゼリーに毒が入っていたことになることである。

紫とオレンジ(2)

こうなると、もはや紫とオレンジの対立は「悪いもの」「良いもの」よりもっと具体的で非対称なものになる。死体のような人形キャンドルや毒入りのゼリーを彩る紫は、「悪いもの」というよりも「死」を表していると考えた方が自然になるからである。ならオレンジは「生」を表しているのかということになるが、ここで「7759」における命あるいは世界の捉え方について考えておこう。

あなたが今からくる世界はパーティのようにたくさんの人やものであふれているんだよ 

 千夏の親*5は徹底的に世界を誉める。世界には楽しいことしかない、世界は深い、世界は美しい。世界はパーティのようで、だから楽しい。これが千夏の出生にして物語の最終盤で語られる世界の見方である。ここから引用して、オレンジを「パーティのような世界を生きること」と考えると、これからの話がしっくりくる。

 

千夏と橘は、パーティを抜け出した。死の隠喩ではなく、千夏の送別会の方の話である。このとき、

青紫の空に街路樹の秋が私達を祝福するように赤く黄色くぽつぽつと光ってるねえ

とあるように、 オレンジ色の世界は彼女らを祝福した。その理由は簡単で、

好きなときに歌い 好きなときにおどり 好きな人と おしゃべりしててもいい 好きな人を 見てるだけでもいい

もし疲れたら 隅で座ってもいい 休んでもいい 見なくてもいい 聞かなくてもいい 

と千夏の親が言うように、パーティのような世界には、歌いもおどりもせず好きな人とおしゃべりしたり、隅で座っていたりする権利が存在するからである。彼女らは正当な権利を行使したまでで、だから世界は彼女らを祝福した。一度目は。

彼女らが二度目に「パーティを抜け出す」こと=死を選んだときも、オレンジ=「パーティのような世界を生きること」は一応、手を差し伸べた。千夏が(オレンジ色の)金木犀の香りを招待しようと窓を開けていたら、少なくともヒーターの不調のせいで死ぬことはなかった。だがそうであっても千夏はケーキにすみれ色の人形キャンドルを立てて死を選んだし、橘はききょう色のゼリーに毒を入れて千夏を死に追いやった。自殺を選んだ千夏を、世界は救わなかった。その理由も、千夏の親が与えてくれる。千夏の親はパーティのような世界の自由さを語っていたが、パーティを抜け出す自由については触れていない*6。世界から抜け出すという掟破りを犯した千夏を世界は冷酷に見放した、というのが一つの分かりやすい答えである*7。これでほとんどの色彩表現の説明は果たしたつもりだ。最後に、二人の手にした幸福について考えよう。

 

幸せ

千夏と橘は、出会い、触れ合うことでともにオレンジ的な幸せを得た。一方で、橘が千夏に与えた「死体を愛する好きな人のために死ぬ喜び」、橘が得た「好きな人を殺してその死体を手にする喜び」、すみれ色のキャンドルを介して千夏が橘に与えた「死体を愛する自分のために好きな人が死んでくれる喜び」は、オレンジ的な幸せではない。「死」という紫そのものが絡んでいる以上、それは千夏の親が規定する「楽しいこと」から逸脱した、オレンジ的世界から見放されてやっと手に入る、紫的な幸せだ。千夏と橘は、橘だけでは手に入らないオレンジ色の幸せと、橘だけでも千夏だけでも手に入らない紫色の幸せの両方を、互いに与え合ったのだ。だから「死に日々」2巻の表紙で微笑む千夏の、オレンジと青の両目には、橘が映っている。それはあまりにも両極端で両立不可能な二つの幸せをもらった証である。その究極的な幸福こそが我々を「7759」に惹きつけるのではないだろうか。

 

おわりに

正直な話、『「7759」、つまりオレンジと紫で表された生と死の喜びの話なんだよな……』で結構な人に共感を得られた気がする。しかしせっかくだから無粋でも言語化してみるか、と筆を取った次第である。

この記事では「オレンジと紫の対立」という直感からくる理解を何とか論理的に導き出そうと、色彩表現の中にある違和感を出発点とし、いまだ議論の余地残る千夏の死因を強引に確定させてまで話を進めた。しかし大事なのはあくまでオレンジと紫という色ではなく、オレンジと紫で彩られた生と死の対立、そしてその対立を超越した二人の幸福である。

 

色々と偉そうなことを書いたが、そもそも土台となる「オレンジと紫の対立」すら危ういのが実情である。群青を紫でないとしておきながらブルーベリーを紫に含めたり、イエローをオレンジと区別しておきながら「赤く黄色く」をオレンジと解釈したりといった恣意的な読解がてんこ盛りなのだ。冒頭の一文だって、

今日の夕空は一面の紫に少しの橙を溶かしたようだった

 もし紫と橙が逆であれば、「オレンジ的世界の中に紫という死が侵食していっている表現だ、何という表現力か」と褒め称えただろう。しかし実際はこの有様で、解釈が全くできなくなったためオレンジと紫の対立を示すのに利用だけしてすっ飛ばした。とまあお粗末な論理に支えられたこの記事だが、それでも結論のもっともらしささえ伝われば嬉しい。皆さんのより論理的な解釈を期待する。

*1:背景が白いことと話の内容から推測。次のシーンでは生まれる前の千夏に親が語りかけており、こちらは背景が黒い

*2:この台詞は構造がとりにくく、「大嫌いあっちいけ」がブルーベリーに向けたものだという確信は持てない

*3:これらの説の主な根拠は、事故説「ヒーターの調子の悪さが執拗に描写されていることと、橘がケーキを食べた以外何もしていないのに死んでいること」、自殺説「すみれ色のキャンドルという死体を連想させるものをわざわざ誕生日ケーキに立てていること」、他殺説「『僕はつい我慢できなくなっちゃって』『人に迷惑をかけないことが僕の人間としての唯一の矜持だったのに』という橘の台詞と、千夏の体調が悪くなっていること」である

*4:Q. 自説に対するメリットとデメリットを勘案して不確定要素を断定するって考察としてどうなんですか?——A. はい。

*5:余談だが、「おとうさんおかあさんもっともっと」のコマ以降の時間では千夏の両親はともに登場しない。さらに時間的にその直後となる回想での台詞が妙に死を連想させるものであるため、このとき両親は亡くなっているというぼんやりとした確信がある(妄想の域を出ないけど)。その場合、「ブルーベリー大嫌いあっちいけ」は幼い千夏の死に対する忌避感を表しているということになる

*6:まあ生まれてもいない我が子に「いつでも死んでいいんだよ」なんて言う親はなかなかいないとは思うし、当然といえば当然なのだが

*7:千夏の親は言っていないが、この世には世界から抜け出す権利が存在しており、それを行使した千夏を世界は暖かく見守った、という考え方もできるが、そうするとオレンジ・紫の対立を用意した意味がなくなってしまう。死は生の一部でなく、対立する概念だと今は捉えるべきだろう